はてブ棚卸し

その瞬間、セミの鳴き声もやんだ。静まり返る斎場で、タモリがマイクの前に立った。


あなたの考えはすべての出来事、
存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。
それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、
軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、
その時、その場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。
すなわち、「これでいいのだ」と。


あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、
あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。
そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。
あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。
私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。
それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。
あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。
しかし、今、お礼を言わさせていただきます。
赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。
私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。

 平成20年8月7日、森田一義



普段の軽妙な語り口はない。こみ上げる感情を抑えるためのように、棒読み気味に語りかける。
ときおり遺影を見上げ、手にした弔辞を読み上げた。が、7分50秒に及ぶ弔辞の締めくくりを迎え、さすがに我慢できなくなった。
「あなたにはお世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。
しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。
私も、あなたの数多くの作品の一つです」サングラスで隠した目に、涙があふれる。
言葉を詰まらせ、「合掌。平成20年8月7日、森田一義」と頭を下げた。

私たちはおそらくこの「社会的安全」や「社会的基準に叶った円満な人物」であるという表示に、おおくの時間をかけ、おおくの可能性や行動を犠牲にするのだろう。
人生だってこの表示のために棒に振るということだってありうるだろう。
友達に合わせたり、友だちを得るために、私たちはおおくのものを犠牲にし、失わなければならない。
ある意味、それは社会が私たちに仕組む社会の防備柵であったり、警戒信号であったりする重要な役割をになっているのもたしかであるが、犠牲や損失もまた大きなものなのである。
猿が毛づくろい(社会的絆の確認作業)に一日のおおくの時間を費やすことと同じである。
警戒信号の解除に人生の大半を奪われるようでは、人生のおおくの時間を損失したといわざるをえない。

理由は恐らく簡単なことで,「量」グループの生徒たちは,多くの作品を作り出す過程において失敗を繰り返し,その失敗から多くのことを学ぶことができた。
それに対して「質」グループの生徒たちは,最高の作品を作り出すための理屈立てにばかり時間を費やしてしまい,
結果的に質の高い作品を生み出すための技能を身に付けることができなかった。

まあ,当たり前のことと言えば当たり前なんだけどね。
多くのことを学ばなくてはならない段階にある人が,まずやるべきことは,とにかく手を動かすことに違いない。
でもそんな当たり前のことも,難しい理屈にまみれるうちに見失ってしまうことがある。
そんなときには,陶芸クラスのエピソードでも思い出してみるといいよ。

質で上回ることができたのは,何をどうした人たちだったんだっけ……ってね。